2017年7月2日、小名浜本町通り芸術祭の新企画『ONAHAMA WALKING TOUR 学歩(まなぼ)』〜富ケ浦篇〜が開催されました。こちらでその内容をレポートしたいと思います。
移動距離:5km弱
高低差:あり
未舗装路:あり
所要時間:4時間
文:江尻浩二郎 写真:髙木市之助(一部江尻)
小名浜エリアの古い郷土史本を開いてみると「古代この湾は富ヶ浦と称し」という一節が出てきます。この「富ヶ浦」ですが、現在これに由来する地名はなく、歴史的な文献をいくら調べてみても、そのような記述は全く見当たりません。唯一、富ヶ浦公園(現・新富ヶ浦公園)という公園がありますが、それは単に、それらの郷土史本がよく読まれていた頃に作られた公園なのでしょう。読み飛ばされて然るべきですが、実はこの「富ヶ浦」という名が、私の妄想を駆り立てて止まないのです。
「福島県史」第1巻より「いわき市の貝塚分布図」
上の図は貝塚の分布を示すもので、10mの等高線が引かれています。約6,000年前、海水面は今より5~10mほど高かったとされていますので、この図を頼りに古代の海岸線をイメージしてみましょう。現在の内陸部に「船戸」や「下船尾」などの地名が残り、住吉神社(小名浜住吉字住吉)の御神体である「磯山」に海蝕跡が認められ、西郷町金山にあろうことか貝塚があることも、これを見れば納得できるかと思います。ちなみに「関船」は関村と上船尾村が合併してできた名前ですね。
時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」埼玉大学 谷謙二研究室より
http://ktgis.net/kjmapw/index.html
上の図の左側は明治41年測量の地図。右は現在です。ゆるやかな弧を描いた長い長い砂浜は、今ではすっかり埋め立てられてしまいました。今回のツアーでは、この「富ケ浦」の変遷をたどりながら、往古の小名浜衆が見ていたであろう景色に思いをはせてみたいと思います。参考文献はできる限り示しましたが、基本的に私の妄想ですのであしからずご了承ください。また、小名浜エリアの概史を押さえておくとより楽しめるかと思いますので、簡にして要を得たこちらのサイトをおすすめしておきます。
小名浜物語
http://www.iwaki-onahama.com/onahama_story/index.html
さて、スタート地点は小名浜松之中。
チェックポイント① 旧鹿島神社参道跡
小名浜には東に諏訪神社、西に鹿島神社が鎮座し、一帯を二分して篤く信仰されてきました。諏訪神社の氏子区域は旧米野村、旧中島村、旧中町村、旧岡小名村の約6000戸。鹿島神社は旧西町村の約2500戸。大雑把にいうと今の鹿島街道を境として東西に分かれていると考えてください。
その大変由緒ある鹿島神社が、今現在、旧西町村にありません。実は昭和43年、臨海工業地域の道路敷設ルートとなり、まさかの立ち退きを食らってしまいました。下の写真の正面、看板の右手が旧参道。看板の裏に見える一本の古い松が唯一の名残です。
社伝によれば、日本尊命(やまとたけるのみこと)の奉祀となっていますが、由緒としてはっきりしているのは、慶安3年(1650年)、当時の湯長谷藩主であった内藤忠興(ただおき)による社殿の造営です。
ちなみに此処の地名は「鳥居下」。北側には「鳥居北」という地名もあります。鳥居なんてないのにどうして?と思っていた方もいるかもしれません。
社伝では、1650年の社殿造営以前もここ「鳥居下」の地にあったということになっていますが、地元の言い伝えに拠ると「より藤原川に近かった」「より西にあった」というものがあり、さらに昭和7年(1932)にまとめられた小名浜第一小学校の「郷土誌」(下図)には「元暦二年中中島ニ在リシガ」と堂々と記載されています。元暦二年は1185年。「元暦二年中」という言い回しはちょっと分かりづらく、「中島」という平凡な地名に関してももう一言欲しかったところですが、現在に残る地名で考えると「中島」は「旧中島村」、もしくは藤原川と矢田川の合流点である小字「中島」のどちらかということになります。前者だとすると諏訪神社があるエリアであり、その勢力分布の変遷を考えると非常に興味深いところ。後者であれば川の中州にあったということになり、これも非常に面白い。方角としては北北西なので「より西にあった」とは言い難いところですが、いずれにしてもこれ以上のヒントがなく辿りようがありません。残念。
小名浜第一小学校「郷土誌」(昭和7年)より
脱線しますが、平安時代(927年)にまとめられた『延喜式(えんじしき)』という文書の中に、当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧が記されています。他にも神社はたくさんあったわけですが、この神社は重要ですよ、というリストですね。磐城では7つの神社が挙げられていたのですが、江戸時代にもなると、それがどれを指すのか分からなくなっていたそうです。残念に思った磐城平藩主内藤家は、忠興、義概(よしむね)、義孝の三代に渡ってその所在を調査し、それを比定し、再興しました。「大国魂神社」「温泉神社」「住吉神社」はほぼ異論がないところですが、「鹿島神社」「二俣神社」「子鍬倉神社」「佐麻久嶺神社」に関しては比定の根拠が薄く、詳細は省きますがかなり疑問が持たれています。小名浜鹿島神社の社殿を忠興が造営(再興)しているということは、当時非常に重要な神社であったことに疑いなく、ここに小名浜鹿島神社こそ式内社鹿島神社ではないかという根強い主張の根拠があります。ま、どうなんでしょうか。
「日本三大実録」に拠ると、貞観8年(866)の段階で磐城郡には既に11社もの鹿島神社があったそうですから、なかなかその考察は難しいでしょうね。個人的には中神谷の「立鉾鹿島神社」とか面白そうなのでいろいろ調べてみたいと思いますけど。
「秣苅場論争控え図」部分(月刊「りい~ど」平成21年3月号掲載)より
上の図は元禄14年(1701)に、ある論争がもとで幕府に提出された絵図の控えです。鹿島神社の境内の様子が伺えます。部分の画像なので途切れていますが、黄色い道筋の右から左に「冨岡ニワ道合ヨリ圡橋迄六百九・・・」の文字が見え、北北西へと伸びる二ツ橋方面への道が当時から既に開かれていたこと、そしてその頃すでに土橋(丸木で作り、表面を平らにするために土を被せたもの)が架かっていたことが分かります。これ、後で出てくるので覚えておいてください。
1961/11/02(昭36) 国土地理院撮影
地図・空中写真閲覧サービス(国土地理院)より
http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1
下段は部分拡大
貴重な航空写真が公開されています。昭和36年(1961)11月2日、国土地理院が撮影したものです。道筋に対して斜めに伸びる参道、また本殿の位置や背後に広がる社叢の様子が分かりますね。これを確認しつつ、少し移動しましょうか。
チェックポイント② 旧鹿島神社本殿跡
鳥居下交番前の角度の薄い十字路。小名浜に来てここで迷う方も多いのではないでしょうか。港へ向かう道は、先ほど説明したように昭和43年頃開通したものです。周辺にはそれ以前の面影がほとんどありませんが、ちょっとこちらをご覧ください。
こちらが旧本殿跡に作られた石祠。ここに本殿があり、その背後は鬱蒼とした森でした。さきほどの参道や松とともに想像してみてください。たった50年前のことです。
時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ 3」埼玉大学 谷謙二研究室より作図
国土地理院地図(1949~1953)国土地理院地図(現在)を重ね合わせ照合
http://ktgis.net/kjmapw/index.html
上図は1949~1953の地図と現在の地図を重ね合わせたものです。旧鹿島神社境内は、明治時代から比べると少々狭くなったものの青で示された区域です。本殿の位置はおおよそ鳥居マークの地点。新道路敷設ルートは赤い点線で示しました。
なぜ新道路はこのようなルートに決定されたのでしょうか。ご覧のようにまともに境内を突っ切って港湾部に伸びていきます。市街地の様子を考えても十分南側に避けて通れそうなのですが、まるでわざと神社にぶつけたようですね。不思議。
いろいろな事情があったと予想されますが、今はこの事実だけを心に留めて、次のチェックポイントに向かうことにしましょうか。
チェックポイント③ 霊人塚
こちらは「霊人塚」と呼ばれています。周辺の開発により取り残された小さな一区画で、鹿島神社の社有地となっています。
「霊人塚」については「石城郡町村史」にその由来が記されていました。
元禄九年子の六月二十七日昼八ツ時より、大波押寄せ、剰さえ嵐強く四ツ迄浜々廻船破壊して、船人浦々にて都合二千四百五十人余相果て、同じく七日まで海中より死骸を取上げ塚を築く、是を霊人塚と云う。今に四ツ倉・小名浜にありと。
元禄9年(1696)の津波犠牲者を弔ったものが「霊人塚」となっていますが、今現在の「霊人塚無縁供養塔」については、少なくとももう一つ段階を経ています。その由来が書かれたものがこちらの石碑(下図)なのですが、先の震災で倒壊してしまいました。その後復旧されることもなく現在に至っています。
無理矢理覗き込むと「霊人塚」「延宝五年十月九日」「男女八十餘人漂死セリ」「菩薩ヲ安置シテ」「今ヤ新ニ都市計画サヘ行ハ」「大海嘯」「元文四年七月」「三﨑長﨑ノ」「合葬シ之ヲ」「合祀シ建碑シ」などの文字が読み取れますが全貌はつかめません。さほど古いものでもないので行政資料などで確認できるかと思いましたが、どうやら記録は残っておらず、郷土史家の方々もわざわざ記録を取るようなことはなかったようです。ぜひ全文確認したいのですが、鹿島神社の許可をもらって引き起こしでもやろうかな、、
小名浜沿岸の歴史を考える場合に避けて通ることができないのが「日本水素工業株式会社」、通称「水素」、現在の「日本化成株式会社」です。その歴史は小名浜沿岸域研究会「小名浜沿岸域形成史」に詳しいですが、昭和初期に企業誘致が行われ、昭和12年に日本水素工業株式会社が発足、昭和14年12月に操業を開始しています。この建設の際、周辺の無縁仏をこの地に合葬したようです。
ご覧のように元々こんもりとした砂丘のようで(下図)、ここには地名として「高山」が残りますから、埋め立て以前は周辺と比べて今より高低差があったのかもしれません。
石碑の背面に「小名浜濱町」「内務省」などの文字が見られるので、少なくとも明治22年(1889)から昭和22年(1947)までの間です。中心部に建つ「霊人塚無援供養塔」は昭和11年7月の建立。いろいろ考え合わせるとやはり昭和12~14年ごろのものだろうと思います。
近隣の方が善意で草刈りなどしてくださっており、ただただ頭が下がる思いです。その方の話によると、震災時までは小さな小屋があり、数珠繰りなどをしていたとのこと。また、遺体は正にここに埋めたので、掘れば骨が出ると言われているそうです。更にこの日、参加者のお一人が伺った話だと、今現在、福島臨海鉄道「宮下駅」前にある巨大な馬頭尊は元はこの敷地にあったとのこと。
ちなみに詳細は省きますが、いわき地方の江戸時代の津波(高潮、暴風雨)被害で著名なものは(諸説ありますが)以下の3件です。
延宝5年(1677)10月7日、家330戸、船97艘、男女75人、牛馬30頭が流出。
元禄9年(1696)6月27日、小名浜から四倉まで計2,450人余りが犠牲。
弘化4年(1847)6月17日、幕領小名浜で800人程が犠牲。
さて次のチェックポイントに向かいましょう。
チェックポイント④ 日本化成株式会社正門
こちらが旧「日本水素工業株式会社」、現「日本化成株式会社」の正門です。本日のツアーの影の主役のようなところがありますのでぜひ覚えておいてください。
あ、ちょうど福島臨海鉄道の貨物列車が通ります。信越本線安中駅発着の亜鉛鉱石を輸送する貨物列車が1日1往復、また(私も知らなくて当日のガイドに盛り込めませんでしたが、)常磐線水戸駅方面発着のコンテナ貨物列車も1日1往復しているそうです。計2往復だけですから超レアですね。
みんなのテンションも上がったところでレポートはその2へ続きます。
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