藤原川沿いを進みます。正面に湯ノ岳が見えてきましたね。左手が真石(まいし)と云う地区になりますが、これをぐるりと回り込んでいきましょう。
チェックポイント⑪ 真石遺跡群
この一帯は遺跡だらけでして、縄文時代後期の「真石貝塚」に始まり、古墳時代の真石横穴群、テントー塚古墳、そして中世の集落跡(もしくは城郭跡)まで各時代の遺構が一堂に会しております。「富」で暮らす人々にとって、ここは非常に重要なオカであったことが伺えます。
ここでは横穴群を見ることができます(下図)。市の資料に拠ると8つ確認されているそうです。
チェックポイント⑫ おふんちゃん
さていよいよ最後のチェックポイントです。鳥居が二つ並んでいますね。向かって左の赤いお堂はお稲荷様。右が「おふんちゃん」の鳥居になります。
通称「おふんちゃん」ですが、正式には「浅間神社(せんげんじんじゃ)」ということになっていて、つまりは富士山であります。保元年間(1156-1159)常陸小太郎成衡の建立と伝えられ、鎮座社地は現在「南富岡字道陸神(どうりくしん)」という非常に魅力的な名前なんですが、もとは「南富岡村字富士山」と称したそうで、これはなぜ地名変更したのか分かりません。
各地に「○○富士」と呼ばれる山があり、富士山を模した「富士塚」のような文化もありますが、小名浜エリアにも富士山があったということなんですね。ちょっと意外でしょう。
少し前までここは鬱蒼とした森だったのですが、木々を伐採し、重機で地面をならしていますね。
ここから石段が始まりますが、登る前に「富岡の風穴洞」という伝説を紹介したいと思います。このあたりにあったという穴の話で、これも「石城郡町村史」に記されています。
富士ト呼ブ山アリ。ソノ根方ニ穴アリ。入口ハセバクシテ段々廣クナリ、五十間程行テ廣サ二間餘モアルベシ、コゝニテ行キトマル。丑寅ノ方ニ指シワタリ二尺斗リノ穴二ツ、辰巳ノ方ニ穴一ツアリ、此穴ヨリ大ニ風ヲ出ス。昔、小名浜西丁ノ行人、此穴ニ入リ再ビ出デズトイフ。
分かりやすくすると次のようになるでしょう。
富士という山があってその根元に穴がある、入口は狭く、段々と広くなる。90m程行くと広さは3.6m以上もあるだろう。そこで行き止まる。北東に60cmばかりの穴が二つ。南東に穴一つある。この穴から大いに風が出る。昔、小名浜西町の行者がこの穴に入って出てこなかったという。
この伝説の穴も今はどこなのか分からなくなってしまったということですが、石段が始まるあたりから斜面に降りたところにあったと、先日地元の方から聞きました。
先程の東教院の墓地裏にも穴があって、そこで火をたくとこちらから煙が出たともいいます。そちらも墓地整備の際に周辺を削ってしまって、やはり今では分からなくなってしまったそうです。残念ですね。
さ、ではいよいよ富士登山と参りましょう。
もう少しです。
つきました。ちょっと驚きますね。ここにみなさんをお連れしたかったんです。
おふんちゃんの社殿は先の震災で大きく傾いてしまいました。もう6年になりますが、来るたびに少しずつ傾きがひどくなっているようです。
先日たまたま鳥居の前を通ると、工事の標識がたっていました。慌てて登ってくるとまだ社殿はあったわけですが、不安になって富岡の方々に話を聞きに行きました。
結論から言うと、山頂の社殿は解体し、鳥居の横に新たに建造するということです。高齢化によって山頂での祭祀が難しくなってきていることもありますし、山頂に再建するには資材の運搬が困難を極めるという事情もあります。今年中には工事を完了するというお話で、はっきりしたことは分かりませんが、山頂社殿での祭祀は今年で最後になるかもしれません。
私が最初に「おふんちゃん」に登ったのは3年ほど前でしょうか。富岡周辺を散歩していて、ふと見上げると神奈備型の小山の山頂に立派な社殿が見えました。手元の地図を見ますが何も記されていません。通りかかった方に尋ねてみても知らないという返事。鹿島神社境内からの登り口を探しましたが見つからず、その山塊をぐるりと巡ってようやくそれらしい鳥居を発見しました。鳥居付近は鬱蒼として暗かったのですが(下図、その時の撮影)、奥へ続く道は草も刈ってあり、非常によく手入れされていました。
登ること10分程、大きく傾いた社殿を見て言葉を失いました。
しばし周辺を注意深く散策しましたが、拝殿正面からの小名浜の景色に感嘆の声がでました。見晴らしが良いことでは、住吉遍照院の裏山(住吉館跡)や、大原の若宮八幡神社などもありますが、ここ「おふんちゃん」から見た眺めは、わが庭を愛でるような趣があり、他にはない不思議な感慨に襲われました。
帰ってさっそく資料にあたると「いわきのお宮とおまつり」に詳細な記述がありました。その一節で私はぶっとんだのです。そこにはこう記されていました。
「昔は旧暦6月1日に小名浜の漁民は丑の刻に大勢して登拝し賑わったという」
そんな話聞いたことがない。さらに読み進めると、以前は前夜から青年団のお籠りがあり、集落の長男が夜っぴて太鼓を叩いていたといいます。現在はお籠りはなく、日の出前に上って祭典を執行し、ご来光を拝するのだとか。いわゆる「お山かけ」の一種でしょう。
この列島に住む人々の山岳信仰には根深いものがあります。神や仏の層を一枚ずつ剥がしていくと、そこには先祖崇拝と山岳信仰が残るはずです。日本各地の霊峰登拝のように、藤原川流域の民は水源近くの霊峰である湯ノ岳に登拝してきました。今でも常磐藤原町田場坂の法海寺では毎年8月にお山かけ行事を行っています。
その法海寺に安政2年(1855)の登拝記録が残り、それを見やすくまとめた資料を見せて頂いたことがあります。それに拠れば、その年のお山掛け参加者は44村、1020名に上り、湯長谷藩全域はもちろん、泉・初田・洞・渡辺・泉田・松木屋など泉藩領、上遠野、深山田など棚倉藩領にまで広がっていました。しかし小名浜の村々の名前がない。「信心が足んねーだな」と大笑いして帰ってきましたが、どうやらそういう訳ではないのです。我らが小名浜衆はこの「富岡」の山に登っていたのでした。旧暦1日の月のない真っ暗な山道を上り、「富ケ浦」に上る朝日を拝んでいたのです。
非常に危険ではありますが、一人ずつ静かに拝殿正面に回ってそこからの景色を見てみましょう。ここがツアーのゴールです。
小名浜衆がこの山に登ったという記述を読んだ時、最初はいわゆる「山見」に使った為の信心だろうと思いました。海の上では特徴のある山の方角や見え方で現在地を把握するのですが、それを「山見」と云います。山見で重要な山は信仰の対象にもなり、航海の安全を祈願して盛大にお参りすることもあります。
しかしこの「おふんちゃん」に関しては、そのような一般的な捉え方では何か大切なものを見落としてしまうように感じました。私は今日見てきたことの諸々が、ゆるやかに無意識でつながっているように思うのです。
時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」より
谷謙二研究室(埼玉大学教育学部人文地理学)
http://ktgis.net/kjmapw/index.html
今日歩いてきた古い道は、その理由がよく分からないとツアー序盤で言いました。こうして改めて古い地図を見ると、この道は「おふんちゃん」に向かっていたのではないでしょうか。少なくとも、この道を富岡方面に歩くなら、ほぼ正面に「おふんちゃん」を見ていたはずです。
そして、このように考えてくると、「おふんちゃん」への祈りと鹿島神社への祈りは、どこかでつながっていたのかもしれないとまで思います。
今現在どのようなカミが祀られているのかはもちろん重要な情報ですが、最も古い層では、山への畏敬の念だけが残るのではないでしょうか。
もう一度10mの等高線を引いた地図を、今度は少し傾けて見てみましょう。「浦」を正面から見るため多少地図をひねっていますが、この「富ケ浦」の真ん中に突き出した「岡」が「富岡」であります。浦に暮らす人々は特別な思いで見上げたことでしょう。
東北地方太平洋沖地震・東日本大震災関連の標高・等高線・人口等の地図・GISデータ
谷謙二研究室(埼玉大学教育学部人文地理学)
http://ktgis.net/tohoku_data/
今日辿った「岡」への道を記してみましょう。私たちは「富ケ浦」のまん中を「岡」に向かってまっすぐ歩いたことになりますね。
同上
「富岡」の周りには縄文の昔から常に人が集っていました。それはまるで「富」の中心であったかのようです。
ハマからの古い街道は「富」のオカへと続いていました。それは「おふんちゃん」に向かってまっすぐ伸びているようにも思えます。
昭和の高度経済成長期、立ち退きを食らった鹿島神社は、なぜか氏子区域外である「富岡」への移転を選びました。古くからの道を辿ってオカに帰っていくような遷宮でした。
「おふんちゃん」と鹿島神社は、元々はひとつの信仰なのかもしれません。それは富ケ浦に住む人々の、山に対する畏敬の念。
こんなことを考えながら眺める拝殿正面からの景色は、小名浜衆の私にとって、実に特別なものがあります。そんな妄想にみなさんをつき合わせてしまった訳ですが、、、山頂の社殿が失われる前に、ここからの眺めを誰かに見てもらいたかったと、まあ、そんな訳で。
余談ですが、この「おふんちゃん」という呼び名は一体どうしたことでしょうか。関西の方が神様を「えべっさん」「すみよっさん」などと親しみをこめて「さん」付けで呼ぶことはつとに有名ですが、我々小名浜衆は、あろうことか天下の富士山、浅間神社をして「ちゃん」づけですよ。もうこのへんが小名浜衆の真骨頂を見る思いで痛快極まりないです。
ちなみに今年の大祭、旧暦6月1日は7月23日(日)。私は当然、万難排して臨みたいと思っている訳です。月のない夜にあの道を登り、そして拝みます。「富」の朝日を、今も「オカ」に住む末裔たちと共に。妄想の「ウラ」を想いながら。
文:江尻浩二郎 写真:髙木市之助(一部江尻)
参考文献
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高萩精玄「磐城市の歴史-中世まで」
岡部泰寿「泉の風土と歴史」
福島県「福島県史」第1巻
葛山為篤「磐城風土記」
諸根樟一「石城郡町村史」
小名浜沿岸域研究会「小名浜沿岸域形成史:港と町をつくった300年」
吉田貴彦「東日本大震災にともなう福島第一原発事故がきっかけとなって明らかになったヒ素による土壌汚染」
本多忠緯、高萩精玄「磐城戊辰史」
いわき市神社総代会「いわきのお宮とお祭り」
小名浜第一小学校「郷土誌」
月刊「りい~ど」平成21年3月号
参考リンク
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小名浜物語
http://www.iwaki-onahama.com/onahama_story/index.html
http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1
時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」
谷謙二研究室(埼玉大学教育学部人文地理学)
http://ktgis.net/kjmapw/index.html
東北地方太平洋沖地震・東日本大震災関連の標高・等高線・人口等の地図・GISデータ
谷謙二研究室(埼玉大学教育学部人文地理学)
特定非営利活動法人 循環型社会推進センター
福島県復興公営住宅 第三期募集団地
https://www.npo-junkan.jp/fukkou3/data_iwaki.html
対岸よりおふんちゃんを望む。山頂に社殿の屋根。
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